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ロサンゼルス・オリンピック・オーディトリアムのジョニー・ドイルと、ハリウッドのヒュー・ニコルスは、二人がNWAに加盟した翌年、NWAの協力によりそれまでの興行戦争から、共同体制へと移行した。
NWA加盟後も独自の世界ヘビー級選手権を認定し続けていたドイルは、NWAの圧力に耐えれず、ついに1952年5月に、同地区王者バロン・ミシェル・リオーニとNWA王者ルー・テーズによる統一戦を行なう。この試合が、多くの関係者やマスコミの協力により、その時点ではプロレス史上最高$100,000の売り上げを達成。
50年代中期になると、ドイルは興行権をニコルスとカル・イートンに売却。だが56年11月、年会費の未支払いおよび本部からの連絡に対する返事がないことを理由にイートンはNWAを除名、更には同年末ニコルスが自殺。
翌1957年、シカゴでエドワード・カーペンティアが疑惑の判定(?)でテーズを破り、テーズとカーペンティアの二人のNWA世界ヘビー級王者という異例な体制が一時的に敷かれるものの、カーペンティアのマネージャーでもあったモントリオールのプロモーター、エディ・クインのNWA脱退により、カーペンティアは王座を剥奪される。だが、イートンがプロモートするロサンゼルスや、同地区を離れたドイルが移転した先のボストン、そしてNE州オマハ等の数地区では、カーペンティアを認定し、これがロサンゼルスのWWAを含む各地区独自の世界ヘビー級王座誕生へとつながる。また、WWAは日本プロレスとも強いつながりを持ち、力道山のWWA世界王座奪取により、アジア人初の世界ヘビー級王者を生み出し、力道山がテーズからインターナショナル選手権を奪取したのも、アントニオ猪木がジョン・トロスからUN王座を奪取したのもロサンゼルスだった。
1968年にはプロモーターのジン & マイク・ラベールがNWAに加盟、同地区は再びNWA傘下となる。70年代に入ると、新日本プロレスやWWFと提携、NWA王座ではなくWWFのジュニアヘビー級やライトヘビー級王座が世界選手権として紹介されたこともあった。だがやがて興行不振に陥り、テレビもスペイン語局のみでの放送となり、82年末には興行権をWWFに売却。その後短期間は表面上引き続きマイク・ラベールがプロモーターということになっていた時期もあったものの、83年にはWWFがNWAを脱退し、事実上ロサンゼルス地区獲得がWWFの全米侵攻の布石となった。 |
WWA選手権
参考文献
関連リンク
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