1960年に発足し、中西部を本拠に、西部諸州を含むアメリカの大部分で活動していた団体。NWAの様なプロモーター達の連合体ではなく、あくまでバーン・ガニアが実権を握っていた。
日本では57年のルー・テーズ対エドワード・カーペンティア戦からAWA選手権が始まったと言われてるが、これは間違い。この試合後、ネブラスカ州オマハ地区のプロモーター、ジョー・デュセックがカーペンティアを認定し、後にその世界選手権 (オマハ版)がAWA選手権に統一された事実からそういった説が出たと思われる。後にオマハ地区がAWAテリトリーになったのは事実だが、1960年以前のオマハ地区は『AWA』でありえないので、少なくともAWAと同じ選手権者を共有し始めた63年頃以前の同地区を。実際には、デュセックだけではなく、ボストンのポール・バウザーとエディ・クイン、そして日本とも関連深かったロサンゼルスのNAWA (後のWWA)もカーペンティアを認定し、それぞれのベルトを作りNWA選手権から分派していった。
かつてはNWAやWWWF (現WWE)とならび、米国三大団体の一つだったが、必ずしもNWAやWWWFとライバル関係ではなく、むしろ政府からの独禁法違反調査の対策案としてNWAがAWAやWWWFの発足を裏で認めていた。それを証拠に、NWAには「NWA世界選手権以外の世界ヘビー級選手権の認定を禁止する。」というルールがあったにも関わらず、スケジュール多忙なNWA王者をブッキングできなかった場合はNWAの会員プロモーターがAWAやWWWFのチャンピオンを呼んでいたケースも少なくない。
プロ入りする前にもNCAA二度優勝など、アマチュア・レスリングの猛者でもあったガニアは、AWA圏でもビル・ロビンソンやマッドドッグ・バション、ニック・ボックウィンクル、ブラッド・レイガンスなど、基本のしっかりしたレスラーを使うことが多かった。
日本では70〜81年、国際プロレスと提携し、ヨーロッパから参戦していたロビンソンやモンスター・ロシモフ (後のアンドレ・ザ・ジャイアント)を発掘し、アメリカで売り出した。その後はNWAの重鎮メンバーだった全日本プロレスと提携、85年には東京で史上初のNWA対AWA世界ヘビー級ダブル選手権試合がリック・フレアーとリック・マーテルの間で行われた。
80年代に入り、WWFやジム・クロケット・プロモーションの全米進出の中、AWAはメンフィスのCWA、テキサスのWCWAといった他のプロモーター達と提携するが失敗に終わり、ガニアのワンマン体制は新しい時代に適応できず、91年にAWAは活動停止する。
96年、AWAによる自己破産関連の裁判で、デール・ガグナーがAWAの団体名やロゴなどの権限を買収し、デール・ガニアを名乗り(バーンやグレッグとは『遠縁』を主張)新しくAWAを旗揚げ。
※選手権名が日本語記述の場合、日本語による変還史を転載。 |