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1930年代の終り頃から、アイオワ州デモインの実業家ポール・ジョージ(通称『ピンキー』)は、ボストンAWA世界王者モーリス・ティレ、NWA(アソシエーション)世界王者サンダー・ザボー、カンザスシティMWA世界王者オービル・ブラウンなど、各世界王者を招いてプロレス興行を主催していた。その後、セントルイスのトム・パックスが独占していたこともあり、NWA(アソシエーション)世界王者の招聘が困難になり、1943年6月、カンザス版NWA王者エデ・ヴィラグを招いた頃から、『ナショナル・レスリング・アライアンス』の名を使い始める。
1944年、MWA王者オービル・ブラウンがNWA王者としてアイオワ地区でも定着。カンザスシティのプロモーターでもあったブラウン、そしてミネアポリスのトニー・ステッカーやオマハのマックス・クレイトンらと共同路線を張ることになる。これに、セントルイスでパックス(後にルー・テーズ)と興行戦争をしていたサム・マソニックやオハイオのアル・ハフト、デトロイトのハリー・ライト、シカゴのフレッド・コーラーが加わり、1948年夏、後に世界最大勢力となる『ナショナル・レスリング・アライアンス』が発足する。
だが、創始者のピンキー・ジョージ本人は、NWAを中西部のプロモーター達の連合程度としか考えてなく、そのNWAも巨大化し過ぎ、当初は強力なパートナーだったマソニックとの関係も悪化し、1959年にはNWAを脱退。1960年代もカンザスシティのオービル・ブラウンと協力しながらプロレスの興行を続けていたが、NWAセントラル・ステート地区の『妨害』にも合い、独禁法違反としてNWAを訴えた。その後は、1980年代初期までボクシングのプロモーターとして活躍していた。 |
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