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> AWA アメリカン・レスリング・アソシエーション (1960-05 ~ 1991)

1960年に発足し、中西部を本拠に、西部諸州を含むアメリカの大部分で活動していた団体。NWAの様なプロモーター達の連盟ではなく、あくまでバーン・ガニアが実権を握っていた。
日本では57年のルー・テーズ対エドワード・カーペンティア戦からAWA選手権が始まったと言われてるが、これは間違い。この試合後、ネブラスカ州オマハ地区のプロモーター、ジョー・デュセックがカーペンティアを認定し、後にその世界選手権(オマハ版)がAWA選手権に統一された事実からそういった説が出たと思われる。実際には、デュセックだけではなく、ボストンのポール・バウザーとエディ・クイン、そして日本とも関連深かったロサンゼルスのNAWA(後のWWA)もカーペンティアを認定し、それぞれのベルトを作りNWA選手権から分派していった。 かつてはNWAやWWWF (現WWE)とならび、米国三大団体の一つだったが、必ずしもNWAやWWWFとライバル関係ではなく、むしろ政府からの独禁法違反調査の対策案としてNWAがAWAやWWWFの発足を裏で認めていた。それを証拠に、NWAには「NWA世界選手権以外の世界ヘビー級選手権の認定を禁止する。」というルールがあったにも関わらず、スケジュール多忙なNWA王者をブッキングできなかった場合はNWAの会員プロモーターがAWAやWWWFのチャンピオンを呼んでいたケースも少なくない。 プロ入りする前にもNCAA二度優勝など、アマチュア・レスリングの猛者でもあったガニアは、AWA圏でもビル・ロビンソンやマッドドッグ・バション、ニック・ボックウィンクル、ブラッド・レイガンスなど、基本のしっかりしたレスラーを使うことが多かった。 日本では70~81年、国際プロレスと提携し、ヨーロッパから参戦していたロビンソンやモンスター・ロシモフ(後のアンドレ・ザ・ジャイアント)を発掘し、アメリカで売り出した。その後はNWAの重鎮メンバーだった全日本プロレスと提携、85年には東京で史上初のNWA対AWA世界ヘビー級ダブル選手権試合がリック・フレアーとリック・マーテルの間で行われた。
80年代に入り、WWFやジム・クロケット・プロモーションズの全米進出の中、AWAはテキサスのWCWAなど他のプロモーター達と提携するが失敗に終わり、ガニアのワンマン体制は新しい時代に適応できず、91年にAWAは活動停止する。
96年、AWAによる自己破産関連の裁判で、デール・ガグナーがAWAの団体名やロゴなどの権限を買収し、デール・ガニアを名乗り(バーンやグレッグとは『遠縁』を主張)新しくAWAを旗揚げするが、2008年に、AWAの登録商標などを実際に買収していたWWEに敗訴。
※項目が英語記述の場合、英語によるコンテンツを掲載。 |
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